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2011年8月11日 (木)

勉強しなかった戦中・戦後の子ども時代

 NHKの朝の連続テレビドラマ「おひさま」は、なかなか面白いので楽しみに見ています。作者の岡田恵和さんの脚本のつくり方がよいのだと思います。

 陽子先生は素敵な先生なのに校長から退職を打診されて結局教師を辞めることになりました。あのようなことが許されていたのかどうか、今なら不可能でしょう。

 陽子先生は、子どもたちを理解させる授業ができなくて悩んでいます。私は、丁度陽子先生が担任している子どもたちと同じ年頃に小学校にいました。戦後の混乱で担任の先生が変わったり、クラス替えがあったり、落ち着かないことでした。

 運動場はサツマイモ畑になっていました。そこで獲れたサツマイモがどうなったか誰も知りません。ただ、5年生の時に、仲のよかった前田君という級友が事故で亡くなったとき、クラスを代表して先生と葬式に行きましたが、遠いところだったので先生がサツマイモを2個くれました。弁当にしなさいということだったのです。サツマイモは学校の倉庫に蓄えてありました。

 終戦後は、復員してきた先生が何人かいました。4年生のとき終戦だったのですが、復員してきた若い先生に担任がかわりました。

 復員してきた先生の中に「鉄拳」とあだ名される若い教師がいまいした。あるとき掃除の時間に騒いでいたらその先生が来て、「廊下に並べ!」と怒鳴りました。私たち10名ほどが並びました。鉄拳が飛んでくると覚悟していましたら、注意だけですみほっとしました。その先生は私の父の教え子だったのです。私がいたので殴るのをやめたのだと思います。

 戦後まもなくはそんなありさまでした。

 陽子先生の学校は、戦時中も戦後も男女共学ですが、私たちは卒業するまで男女別学でした。

 陽子先生の受け持つ子どもたちは、昔の子どもの雰囲気をとてもよく伝えていて感心しています。私たちも粗末な服装でしたし、顔や手は黒っぽく汚れていて、青洟を出している子どももたくさんいました。

 男子はみな丸坊主でした。履物lは藁草履でした。卒業写真を見るとその様子がよくわかります。

 勉強は何をやったのか全く覚えていません。戦後最初は教科書に墨を塗ったことや新聞紙のような大きな紙に印刷された新しい教科書をもらって、家で糸でとじたことを覚えています。でも、その新聞のような教科書を使った記憶はありません。

 5年生か6年生の頃から「夏の生活」が作られて夏休みの宿題となりましたが、それをほとんどやらずに提出した覚えがあります。やらずに出したのは問題ができなかったからです。

 特に算数はひどいものでした。通分とか約分というのが全く理解できませんでした。算数の計算や文章問題は苦手でした。今なら落ちこぼれだったのだと思います。

 宿題をやらなくても先生は何にも言いませんでした。ただ、国語は何の苦労もしませんでした。漢字など数回書けば覚えられました。それは小学校一年の頃から家で取っていた朝日新聞を読んでいたからだと思います。

 5年生の時だったと思うのですが、あるとき先生の手伝いで図書室に入ったことがありました。そこで丹奈トンネルを作った話を書いた本があったので借りて読んだのが未だに忘れられません。本に飢えていたのですね。でも、何故か図書館は封鎖されたままでした。多分戦争中の本がたくさんあったからだろうと今になって思います。

 

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