文化・芸術

2017年1月 4日 (水)

銀之城 一座

銀之城一座 太刀の振る舞い

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2013年9月21日 (土)

オペラ「蝶々夫人」を観劇

現在名古屋市と岡崎市で開催中の「あいちトリエンナーレ2013」の一環としてプロデュースされたプッチーニの「蝶々夫人」を観た。

 16日はちょうど台風18号が来た日で心配していたが、午後からは雨が上がったのでよかった。

 第2日めの入場券はS席以外は完売されていたが、15時前でも空席が見られた。不思議に思っていたら、15時に開始の予定が台風の関係で10分遅らせるというアナウンスがあった。 

 私の席はC席で、4階の右寄り5列目であった。以前に5階席で見たときは舞台が真下にある感じであったが、4階もそれに近かった。

 「蝶々夫人」はイタリア語で演じられるので、舞台の両側に縦に日本語でセリフを表示するようになっていた。オペラグラスを持って行ったので読むことができた。

 幕が開くと、大きな障子が組み立てられ部屋のイメージが作られた。私は蝶々夫人を観るのは初めてなので分からないのだが、多分今回の演出の独自性であろうと思った。トリエンナーレの一環での上演なので、新奇な試みがなされたのであろう。

 第一幕は、ピンカートンと蝶々さんの結婚式の場面であった。蝶々さんは芸者をしているが、元々は武家の娘だと分かった。この結婚はどうも仕組まれたもののようであったが、蝶々さんはピンカートンを信じ込んでキリスト教に改宗してまで結婚をするのだ。途中街の人々が坊主を先頭に殴り込みに来るシーンもあった。

 異国のアメリカ人にすれば、日本の女性は非常に魅惑的なものであったと思われる。劇中でピンカートン話す言葉にそれが窺われた。蝶々さんには彼の愛を信じた結婚であった。

 第一幕で芸妓や舞妓が登場する華やかなシーンも組み込まれていて彩りを添えていた。

 夜を迎え「愛の二重奏」はアメリカ的な愛の表現と蝶々さんの心情が交錯して美しいメロディにのせられて歌われた。

 25分の休憩の後、第二幕が始まった。あの有名な「ある晴れた日に」のアリアが歌われた。ピンカートンはアメリカに帰ってしまい、3年も経っていた。蝶々さんは彼が戻ってくることを信じて船が港に入る度に確認に行くのであった。

 領事がピンカートンの手紙を持って来て、彼がアメリカで結婚したことを伝えようとしたのだがうまく話せなかった。「手紙のl二重唱」であると後で知った。この後結婚仲介人ゴローが連れてきた公爵ヤマドリが、ピンカートンを諦めて結婚要求を受けるようにと迫るが受け付けない。

 そしてついに彼が乗っているリンカーン号が港に入ったのだ。舞台一面に花びらを思わせるキラキラしたものが舞い落ちる。蝶々さんは女中に命じて庭のありたけの花を集めさせ、ピンカートンを迎える準備をする。彼が日本を発ってから生まれた子供は青い目で3歳になっていた。

 ピンカートンはアメリカ人の妻を連れてきたのだ。その妻は子どもを引き渡すように言う。

 なぜか芸妓と舞妓が再登場をする場面があり、これは結婚式を回想をしているのだと聞いたが、これも新しい試みのようである。

 ピンカートンを待つ長い夜の場面はオーケストラのメロディだけが流れて蝶々さんは立ったままである。5分ぐらい続いたであろうか。この演出も新しい試みかも知れない。

 結局子どもを引き渡すことにした蝶々夫人は自殺を決意する。「名誉を持って生きられぬ者は名誉を持って死ぬ」と歌う。武家の娘としての矜持かも知れない。短刀で胸を刺す。倒れるところへピンカートンが現れ呆然とィ立ち尽くす。そこで幕が降りるのだ。この終わり方はよかった。

 蝶々夫人役は安藤芙美子さん。蝶々夫人は長丁場の出ずっぱりなので大変だと思った。きれいな声で4階まで届いた。ピンカートン役はカルロ・バッリチェッリで声量がありまさにぴったりの感じであった。

 蝶々夫人のストーリーは単純で結婚詐欺のようなものだから最後の方まで理解に苦しんだが、最後に蝶々夫人が自殺をしピンカートンが立ちすくむところで終わったので納得が行った。ピンカートンの胸に死ぬまで刻み付けるからだ。

 このオペラを西洋人が演じるとどうなるのかと思った。日本的な立居振舞を表現できないのではないかと感じた。やはり日本人が演じるべきであろう。

                       H.S

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2013年4月16日 (火)

 突然閉館 「ルーブル美術館」    新聞ニュース

 パリの世界的観光地ルーブル美術館で10日、館内で多発しているスリへの対策強化を求める職員が突然ストを実施し、臨時の休業に追い込まれる異例の事態となった。11日は通常どうり開館した。

 職員らは、スリ集団から館内で暴力で脅されたり、暴力を振るわれたるするケースが増えていると主張。美術館側の対策があまいと訴え、約200人がストに入った。フランス政府が警察官の増員などの対策を約束したため。11日から業務に戻った。

 AFP通信等によると東欧からの移民と見られる未成年の集団が、18才未満無料館内に入り込んでスリやひったくりに及びケースが目立つ。1ヶ月に約150件の被害が届けられているという。ルーブル美術館では10日、予告なしの休館に困惑する観光客の姿が多くみられた。

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2012年11月13日 (火)

日本舞踊稲垣流 第62回豊美会発表会を観る

11月4日(日)に日本舞踊稲垣流の第62回豊美会が日本特殊陶業市民会館ビレッジホールであった。知人のSさんのお嬢さんが稲垣舞蝶という名取りで出演されるので券を頂いた。

 13時開場で13時に着いたら、もう入り始めていた。中に入るとかなりの席がうまっていた。それでまん中の通路より3つほど後ろに席を取った。しばらくして気が付いたらSさんがすぐ前にいた。席を取っていて下さったのだ。それでそちらに移った。

 13時半に始まり、最初は家元のお孫さんたちの踊りで、お月様と白虎隊を踊ったが可愛らしく、特に白虎隊は微笑ましかった。

 第一部は、歌謡で兄弟船や天城越えなどの演歌が多かった。歌謡の部は18番まであって、それぞれが日頃の練習の成果を披露して上手に踊っていた。歌謡の踊りは宴会とかちょっとした会合で披露するのに手頃である。介護施設の慰問などでよく踊られる。

 第2部の古典は、舞台の大きな背景やセットがあり、しかも、長い踊りであった。みなさん大変お上手で楽しませて頂いた。

 長唄 鶴亀、 小唄 紅日傘、 長唄 松の緑、 長唄 春秋。この春秋は大きな花とそこから出る赤い長い布を使ったが、それを見てマジックのファウンテンシルクを使えばいいかも?と思った。

 長唄 梅の栄  は、衣装替えが何回かあった。名取となられた稲垣美利さんが踊ったが力の入ったよい踊りであった。この踊りの後手ぬぐいが撒かれた。私は前の方に行ったら、名古屋華マジカルグループの会長のみずほさんがいたので驚いた。知り合いの稲垣友紀洋さんの応援だそうだ。

 俚奏楽 雪の中、 長唄 舞妓(花が見たくば)は、何と82歳の方が舞妓に扮して踊られた。高ぼっくりを履いての踊りで心配していたら転倒した。でも、何事もなかったのでよかった。歳に関係なく挑戦するのはいいことだ。

 長唄 黒髪、 大和楽 古跡の秋。 そして、次が舞蝶さんの「新鹿の子」であった。長い花道からの出であった。私はカメラで動画を撮るべく用意をしたが、花道から出るとは知らず、カメラが踊ってしまった。衣装チェンジがあり、赤い衣装に赤い笠を連ねたものを持っての踊りに変わった。この扮装は日本人形によく見るものである。最後は緞帳が下りて終わった。変化のある踊りをしなやかに艶やかに踊られた。さすがであった。

 常磐津 幻猩々、 は 歌舞伎にも出てくるものに似ていた。長唄 羽の禿、 長唄 助六、 これも歌舞伎からだと思われる。男踊りを巧みに踊った。

 常磐津 のろけ地蔵は面白い題名だ。 大変地味な背景の中での踊りであった。

 稲垣友紀洋さんの踊りは「藤娘」で、これもよく知られた大作である。大きな舞台装置の下で藤を持って踊った。とても上手であった。

 清元 瓢箪、 長唄 春の調べ、 新内 小原庄助さん、この辺は幹部級なのかみなさん素晴らしかった。

 最後は、家元の稲垣友紀子さんが、荻江節 「鐘の岬」を踊った。紫の衣装で舞台背景はかなり地味で静かな味わいのある踊りで意外であった。というのは、それまでもお弟子さんたちの踊りの舞台が大掛かりで派手なのが多かったからだ。

 第3部は、再び歌謡で、最初はゲストの水上志保さんの歌で美空ひばりの悲しい酒などが踊られ、その後、持ち歌の「縁川」、「ひばりの佐渡情話」を独唱した。趣向が変わっていてよかった。

 舞蝶さんの踊りはオオトリの前に、「釜山港へ帰れ」を稲垣豊由希さんと踊った。この日のステージでただ一つ、和服ではなく、韓国の衣装を着て大きな扇を持っての異色の踊りであった。

 最後は「山河」を家元のお嬢さんの稲垣舞比さんたち4人で踊った。近くにいた人たちが「やはり舞比さんが光ってるね」と話していた。

 終わったのは6時40分ぐらいで、すぐに外に向かうと、受付で花束を配っていた。私も1つもらって幸せに感じた。

 Sさんのお蔭で日本の伝統文化の日本舞踊に触れることができた。私には、長唄、常磐津、清元、荻江節、新内、大和楽・・・などの知識もなく、区別すらつかないが、伝統芸能を学んで継承していこうという人たちがいることは素晴らしいと思った。延々7時間は、初めての経験であったが、ある意味で勉強になった。

 手つき、腰の落とし方、首の動かし方、しなの作り方、足の運び方、目線・・・そして、小道具の扇、団扇、手ぬぐい、布、ショール、鼓、花、笠・・・などの使い方なども興味津々であった。

 マジック、特にステージマジックを目指す人にとっては日舞は大変参考になると付け加えておきたい。

                 ―H.S―

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2012年7月 7日 (土)

創作浮世絵キルト

 名古屋市博物館へ知人が出品している写真展を見に行ったら、隣の部屋でキルトの浮世絵の個展をやっていた。珍しいので見ることにした。

 美人画の浮世絵をもとにハワイアンキルトの技法を使って製作したものであった。といっても、私にはハワイアンキルトがどういうものかはまったく分からない。第一、初めて聞いたのだ。

 もとにした原画の写真をキルト作品と並べて展示してあるので分かりやすい。喜多川歌麿や鈴木国芳など有名な浮世絵画家の作品を部屋いっぱいに展示してあった。畳1畳ぐらいの大きなものから新聞紙大のものまであった。

 どれも丁寧に原画に忠実に再現してあった。少し離れて見ると表面の凸凹が薄れてきれいに見える。

 先日、名古屋市市民ギャラリーで、杉柾板に彫った北斎や広重の浮世絵を見て驚いたことを書いたが、今回はキルトによる美人浮世絵でまた驚いた。

 会場に製作者がいたのでちょっと質問をした。美人画を選んだ理由を尋ねたら、美人画が好きだと言った。広重や北斎の浮世絵について尋ねたら、風景画はきれいにできないということであった。

 会場に置いてあった昨年8月の中日新聞によると、作者は浅野裕子さんといい、甚目寺に住む家庭の主婦と書いてあった。キルトで浮世絵を作る人は他にはいないでしょうねと尋ねたら、いないと思うと答えた。

 先だっての木彫りといい、今回のキルトといい、素晴らしい独特の工芸を造りだしたことに感嘆した。

 10月に丸栄で開かれるキルト展に浮世絵キルトを出品するそうだ。

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                                    ―H.S―

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2012年4月16日 (月)

大好きな越路吹雪の名曲「愛の讃歌」誕生秘話を見て

越路吹雪が歌った「愛の讃歌」は私の大好きな歌である。元の歌は有名なシャンソン歌手のエディット・ピアフが歌ったもので、歌詞の内容も歌い方も激しいものである。

 ピアフを描いた映画が上映されたときは見に行った。それで愛の讃歌の誕生のいきさつを知ることができた。

  しかし、ピアフの名曲をどうして越路吹雪が歌うことになったのかは知らなかった。4月4日のNHK歴史ヒストリアを見て初めてそれが分かった。

  昭和26年に、越路吹雪は宝塚歌劇団のトップスターを自ら辞めて独立した歌手の道を歩き始めた。そのときマネージャーを務めたのは同じ歌劇団の文芸部にいた親友の岩谷時子であった。

  東京に出て活躍を始めて1年たった昭和27年9月に、日劇の大舞台でオオトリを務めることになった。それはオオトリの大歌手が急に出られなくなったので急きょ越路吹雪が起用されたのであった。

  越路が歌う曲はエディット・ピアフの「愛の讃歌」であったが、フランス語なので感情をこめて歌う自信がなかった。そこで岩谷が日本語の詩を書くことになった。岩谷は元歌の内容の説明を受けてその激しさに驚いた。

  歌詞を書く時間は1日しかなかったが、岩谷は徹夜をして書き上げた。それがあそ「愛の讃歌」である。歌詞は一筋に恋人を思う気持ちを日本語でロマンチックに表現されていた。

  ”あなたの燃える手で 私を抱きしめて ただ二人だけで生きていたいの・・・・”

  越路はその歌詞を見て「恋を知らない貴女だからこんなすごい歌詞を書けたのね」と言って笑いだしたという。

  オオトリで感情豊かに歌われた愛の讃歌を聞いて聴衆はみな魅了されたという。確かに越路吹雪の歌い方は、エディット・ピアフとは全く違う。しっとりと心に訴える唱法だ。

  ピアフの方は失った自分の大事な恋人を思い激しく切なく歌っている。それはそれでよい。

  30歳半ばの頃、シャンソンのコンサートでアマチュアの男性歌手が愛の讃歌を歌うのを聴いた。そのとき自分も歌えたらいいのに・・・と羨ましく思った。

  それから何十年か過ぎて、カラオケを始めたとき、越路吹雪の歌が同じキーで歌えることが分かった。それで「愛の讃歌」や「サントワ・マミー」や「忘れないで」などを覚えて歌うようになり、私の持ち歌になった。

  歴史秘話によると、越路吹雪は当時の宝塚歌劇団の中で一番広い音域を持っていたという。私は、女性にしては低い声で私にも歌えるので意外であった。

  岩谷時子は、愛の讃歌の作詞がきっかけで大作詞家の道を進んだ。しかし、生涯マネージャーを務めた。ただ大親友からは報酬は貰わなかったのだそうだ。

                            ―H.S―

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